『はぁっ………は……っ……はぁ、……』
暗闇が支配していた。
あらゆる記憶が暴走して
の中を這いずり廻っている。目を醒ました瞬間、差し迫る感情を制御出来ずに、荒く掠れた呼吸が口から漏れた。
の前にはただ、セピア色に霞んだ思い出と、ぽっかりと空いてしまった空洞が佇んでいる。穴からはいつも、冷たい風がビョウと音を立てて吹いている。
ビョウ、ビョウ。
胸を焦がすほどの憧憬に、知らず胸を鷲掴む。
――早く過ぎ去ればいい。これは、夢だ。
分かっている。もう二度と戻って来ないことなんて。
分かっている。もう仇討ちが終わったのだということ。
ベッドから抜け出して月を眺める。素足で感じる冷たい床の感触が、妙な現実味を
に告示する。
見上げた月は少し欠けている。それでも、遠い異国の地でも、月は変わらずそこにある。ただ、少し模様が変わってしまった。
いつの間にかかいた汗が夜気に冷える。
顔を洗おうと振り返ると、闇と同じ色の服が壁に掛けられていることに気がつく。つい昨日もらってきた新しい団服。
胸にローズクロスの入ったそれは、同時に彼女の戒めでもあった。
――私は、エクソシストだ
もう幾度となくつぶやいた言葉を、胸に刻みつけるようにまた、つぶやいた。
09. 任務
「多分、こういうことだと思うんだ」
ヘブラスカを前に、コムイはうーむ、と少し考えた素振りを見せてから、
の手に握られた剣を見ながら言った。
が持っているのは雅菊(やぎく)ではなく、武器庫にあった剣を適当に拝借してきたものだ。
この室長が存外に気安く、人の良いことを知るのにそう時間はかからなかった。
は以前のように格式ばった言葉遣いを改めて――と言っても、英語での敬語というのはまだ
には理解出来ていないのが現状だが――、この事実上の最高責任者と会話をする。既に、気軽に挨拶を交わすことが出来る一人だ。
「
ちゃんが持つ武器は全てイノセンスと同等の力を持つ、というのは少し安易過ぎたかもしれない。彼女と深い因果関係があるから、この刀はイノセンス化(、、、、、、)をされているだけで、例外的な特別なんだ、きっと」
雅菊はイノセンスではない。
自身今まで気が付いていなかったが、右の鎖骨には十字架が埋められている。寄生型のエクソシストでありながら、その体を武器化せず、操る武器がイノセンスとしての力を持つ。しかしそれも、
が持つ全ての武器がイノセンスになるわけではない。深い因果関係にある雅菊だけが、なぜかイノセンス化しているようだった。
体調の回復を見て、コムイがヘブラスカに頼んであれこれ実験して出た結果は、それを示唆していた。
が今持っている西洋の曲刀は、単なる剣でしかない。雅菊にはある力が、他のどの武器にも現れなかったのだ。
「雅菊、は、“特別”?」
「うん、そういうこと。これだけ別のものとは違うってことだよ」
曲刀を見つめて、
もぽつりとつぶやく。特別。
雅菊は代々
家に伝わる秘刀だった。前代党首である父が使っていたものを、父の死の間際に、
が受け継いだのである。
どうして雅菊が特別なのか、それが問題だ。
コムイは心なしか嬉しそうにそう言った。科学者の血が騒ぐのかもしれない。
科学班の研究員が慌てた様子でコムイを呼びに来ると、コムイは「心当たりを探しておいてね」と
に言い置いて、その場はお開きとなった。
ヘブラスカに軽くお礼を言ってから、
もその場を辞した。
任務が飛び込んで来たのは、
がコムイと別れてからすぐのことだった。どうやら研究員が呼びに来た理由はこれらしい。
体もほとんど本調子に戻りイノセンスの訓練に励んでいた
に、その任務は回ってきた。もともと身体能力、戦闘能力ともに高かった
である。神田の報告書にもあったように、レベル1を倒すくらいの技術、実戦力を既に備えていた。
まともに“動ける”ようになったここ2週間程は、集中して教団にいたエクソシストなんかに手合わせをしてもらいながら――ファインダーでは
の相手にならなかった――、体力と戦闘の感覚を取り戻して行った。そこへ舞い込んだ任務となった。
普段ならすぐにでも出発となるところだが、半日待てば神田が別の任務から帰ってくる。言葉もまだ不安が残る
は、しかも今回が初任務である。それを配慮して神田の帰りを待っての出発となった。
「
ー、出発の前にもう一度室長室に寄ってくれってよ」
修練場から出てきた
に声をかけたのはリーバーだった。手にはいつものごとく大量の書類を抱えて、いかにも顔を見たから今思い出しましたとでも言わんばかりに、声を張り上げた。
「室長室。行くは、いつ?」
黒のローズクロスを纏った小柄な
は、足を止めて振り返り、リーバーへ駆け寄った。気さくな科学班の班長は、
を見かけるとよく話しかけてくれる。
「出発の前、だ。そういや団服出来たんだったな。似合ってるじゃないか」
「そ、う?」
心なしか照れた様子の
は小さな声でそう言った。
西洋の服は、和装よりも動きやすい。
袖口は少し広め、手の甲ほどの丈で少し長い。上着は太股辺りまで長さがあり、腰をベルトでしめ、タイトなズボンにブーツといういで立ち。腰には雅菊(やぎく)がさがっている。どこからどう見ても、その姿はエクソシストに相違なかった。
以前より少し健康的に見えるようになったとは言えまだ随分と痩せた体には、団服は少し大きいような印象がぬぐえない。しかし、笑顔を見せたことこそなかったが、表情は随分と“生き生きと”してきた。
少なくとも、表面上は。
「今から、準備、する。それから、室長室、行く」
まだ言葉がスムーズに理解出来て発言出来る、とまではいかなかったが、全く分からなかった2ヶ月前に比べたら随分な進歩だろう。一応会話らしくは見えるようになった。簡単な意思疎通程度には事欠かない。
リーバーにそう言うと、早速部屋へ向けて歩き出した。
室長室のドアを開けると、ちょうど出てこようとする神田と鉢合わせした。
『神田殿。帰っていたのか』
『…』
今帰って来たんだよ、とでも言いたそうな鋭い視線だけを寄越して神田は横をすり抜けて行った。
これは相当イラだっていると見て間違いなさそうだ。帰って来てまたすぐ任務なのだから当然と言えば当然かもしれない。
彼がこの2ヶ月ずっと教団に居たわけではないし、共に過ごした時間もそう長くはないが、なんとなく、今のは分かった。あれは触らぬ神になんとやら、である。
「
ちゃん、準備出来た?」
「はい」
コムイは立ち上がると
に歩み寄り、はい、と手を差し出した。上には黒くてコウモリの羽のようなものを付けた塊が乗っていた。
「これを渡すのを忘れてたんだ」
「これは、なに?ですか」
「ゴーレムって言うんだ。使い方はカンダくんが知ってる。さ、すぐに出発するよ。彼はもう船着場に向かったから」
「はい」
「船着場は初めてかな。おいで」
にこりと笑うコムイの後に続く。室長という座にいながら、全くそれを鼻にかけたところがない。聞けばどうやらリナリーの兄だという話だし、お人好しな兄妹(きょうだい)だな、と
は思う。
二人が船着場に来ると、神田とファインダーは既に船に乗り込んでいた。
『遅ぇよ』
『すまない。行こう』
「気をつけて!必ず、帰っておいで」
少しずつ滑り出した船から振り返ると手を振るコムイが見える。
「いってらっしゃい」
も会釈を返した。
『行って参ります!』
コムイは二人が見えなくなるまでその場で見送っていた。ベテランのエクソシストの横に並んだ背中は、まだあまりに小さい。
あれで16歳だと言うのだから、コムイは酷く驚かされたものだ。少し前、
に年齢を尋ねた所、しばし考えたように頭をひねってから返ってきた答えは、
「じゅう、と……ろく?です」
どこからどう見ても10歳前後にしか見えない彼女は、しかし予想を遥かに上回る年齢を言ってのけた。指を折って数字を数えて確認してみても、返ってきた答えは同じもの。
この小さな少女がリナリーと同い年とは。
彼女の旅がいかに過酷であったのかが伺い知れるようだった。成長期のこの4年間、よほど無理な旅をしてきたに違いない。もしかしたら、ろくに食事や睡眠を摂っていなかったのかもしれない。精神的なストレスも余程のものであったはずだ。
小さな背を見送りながら、自然、曇る顔に気が付いてコムイは頭を振った。
これまでの復讐者としての
よりも、これからのエクソシストとしての彼女を応援してあげたい。
戦争の中にあって、どうか彼女が少し、ほんの少しだけでも、“光”を見つけられたなら。
船が消えた闇から顔を背け、コムイは階段を登り始めた。
カルパチア山脈。数カ国にまたがるその山脈の、ルーマニア側にある小さな村が今回の任務地だ。山にへばりつくようにしてある小さな村での異変は、4ヶ月ほど前から起こり始めた。
初めは小さな虫だった、と報告書にはある。
突如現れた黒い霧のようなそれが、陽が昇る頃に朝陽を背にして大きな群を作って飛んでいたのを、村の住民が目撃している。山の中腹より少し上、村から辛うじて見えるほどの距離だった。
陽が高くなって住民がその辺りに登って見てみると、それは小さな昆虫だった。その死骸が山中に散乱していた。
それだけならばただの異常気象で話は片付いた。虫の大量発生自体はそんなに珍しくはない。
しかし次の日、大量の死骸は跡形もなくきれいにその姿を消していたことに、村の住民はそろって首を傾げた。
だが、やはりそれだけならば、特筆すべきことではない。別の動物が食べたのかもしれないし、風に飛んだり土に埋れた可能性もある。
次にその現象が起きたのは1ヶ月程経ってからだ。今度は以前よりも幾分体の大きい昆虫が、同じように村人によって目撃され、その後大量の死骸が発見された。次の日にはその跡形もなく消えている。
それが何度か続いた。
大量発生する生物は昆虫だけでなく、しかも発生する度に個体の大きはさどんどんと大きくなる。現象が起こる間隔も、少しずつ短くなっている。
6度目にスズメ、7度目にニワトリが大量の死骸となって発見され、村は本格的に危機感を感じ始めた。
その時には今まで無かった変化が見られた。
これまでと違って死骸の後には妙な灰が残っていたのである。死骸は見つからなかったが、それがあった場所には多少散ってしまっていたものの、風では拡散しきれなかった灰らしきものが散布されたように残っていた。
しかし原因も対処法も分からずに、現象はなおも続いていく。
これがこのまま続けば鳥から家畜などの動物となり、いずれは人間も同じ道を辿ってしまうのではないかと村の人間は戦線恐々としている。
「おそらく次は犬か羊か、その辺りなんじゃないかと村人は噂しているようです」
現地で合流したファインダーはそう締めくくった。
麓(ふもと)の駅から任務地である村までの交通手段は徒歩しかない。道先案内人であるファインダーの後をついて歩きながら、新しい情報や現地の今の状況の説明を聞いたところだ。
『神田殿』
『んだよ』
『彼らは何を背負っているのだろうか』
教団からの道中、
は初任務という割にひどく落ち着いていて、様子はいつもと全く変わらないように神田の目には映った。
ただ、教団でもそうであったように、思い出したように時折、疑問を口にする。
は表情が乏しいせいか、物事に対して非常に淡白なように見えた。コムイやリナリー、アレンの前では目元を緩ませることもしばしばだったが、しかし教団に来てからの目まぐるしい変化の中で、まだ整理のつかない様々の感情を持て余していた。
やるべきことは分かっている。自分の立場もようよう理解が出来た。なのに気持ちはどこか冬の朝のように霧がかかって先が見通せない。
心身ともに負った傷は、未だ塞がる気配すらない。
傍から見れば、淡々と日々を過ごす一教団員にしか見えない。
『あ?』
『“ファインダー”の彼らだ。彼も、同じものを持ってる』
まだ慣れない単語をそれとなく使いながら、目の前の二人が背負う同じ形状の四角い箱を指さした。
確かに、教団から同行したファインダーと、先程駅で合流したファインダーは、同じものを持っている。
『電話。ゴーレムとつないで遠くの奴と話が出来る機械だ』
『遠くの人と?…どのくらい?』
『詳しくは知らねえ。教団との連絡に使うくらいだからな』
『では今コムイ殿と話も出来るのか?』
『――』
『すごいな…』
全くそう思っていなさそうな体でそう言って、話はいつも大体そこで終わる。道中での会話は決して多くないが、時折こぼす疑問や他愛の無い話はぽつりぽつりと紡がれる。
今回もそれきり口を閉ざした
は、日が既に傾き始めた山の端を見つめていた。
『美しい景色だな』
誰に言うでもなく、
は言った。
『………神田殿』
『んだよ?』
少しだけ間を置いて再度繰り返された呼びかけに、神田は語尾も荒く振り返った。山の端を眺め、
は足を止めている。
『あれは、』
の視線が微かに細められている。左手は自然、雅菊の鯉口を握り、いつでも抜けるように右手が柄に添えられていた。
その様子に神田も同じ方向を見上げる。あれは、―――
『チッ、早速来やがった』
まだアクマの目撃情報はなかったはずだが。
こちらに向かって来る球体を数体確認して、神田は六幻を発動させた。
「来るぜ」
は無感動にその影を見上げた。
2010/04/29