08. 予言
『では“ご馳走様”に当たる英語はないのか?』
『ねぇよ。日本語と英語は1対1対応にはなってねぇ。そうやって覚えると痛い目見るぞ』
『そうなのか、……、よし、ありがとう。勉強になった』
アレンとリナリーとの食事をしてからというもの、
は食事中に言葉の話をすることが多くなった。医務室にいるときは、学んだ言葉を使って看護師達と軽い会話をして練習をし、分からなかったことをまた食事時に神田に質問、理解を深めてからまた医務室でそれを試す。
もとより鍛錬も出来ずに日がな一日暇な時間を持て余していた
には、いい日課になっていた。
今しがた言われたことをしっかりとメモに取ってから、
は神田と別れて医務室へ向かって歩き出した。食事時の外出が認められてから早1週間、流石に医務室までの道を覚えた
は医務室までは一人で帰るようになっていた。
食後の薬を飲んでしまってから、
は神田が医務室に訪れたときの事を思い出した。
『明日、コムイがお前に会うそうだ』
『コムイ?』
『室長だ』
そう神田から聞かされて、
はいぶかしんだ。聞けば室長は、この教団で事実上一番の権力を持つ人だと言う。
そんな人が自分に何の用だろうか。いや、その前に自分のような者が目通りしていいものだろうか。室長自らが仔細を説明してくれるというのだからなんと有り難いことなのだろう、
はそう思った。
体力が少しずつ戻ってきて、医務室住まいは変わらないものの、明日からは食事時以外に外出してもいいという許可がおりた。それを見計らっての呼び出しだということはすぐに察しがつく。
やっとこれから、少しずつここの人間になっていく。そう思うと、安心するような、寂しいような、そんな感覚が
を支配した。
翌日、神田に連れられてきた扉の前で、
は少なからず緊張していた。
もう一度自分を見下ろして身なりを整える。与えられたのはシャツと黒いパンツという簡単なものだったが、リナリーのお下がりなのか、シンプルだが小洒落た刺繍が施されている。
は扉を前に緊張する気持ちを押さえる今の自分を見て、なんだか小さい頃に父に連れられて初めて族長会議に行った時のことを思い出した。
―――無礼のないようにしなければ。
「いらっしゃい、
ちゃん!適当に座って!」
扉を開けて聞こえてきた声と部屋の散らかりように、
は驚きに目を見張った。
どう反応を返していいのか、軽く頭がクラッシュする。
これは、予想していたのと随分違う。
能天気な声。散らかった部屋。
待て、自分は誰に会いに来たのだったか。
はなんとか動揺を隠すように努め、注意を払って“室長”のそばへ寄っていった。――いくら注意を払っても、書類を踏まないわけにはいかなかったが。
神田がずかずかと無遠慮に書類を踏んで、挨拶もなしに椅子に腰掛けるのを見て、
は面食らった。
「カンダくん、きみにもエスコート出来たんだね」
「…」
「冗談だってば!」
無言で六幻を引き抜こうとした神田に、コムイがおどけてみせる。そのやり取りの後、はっとなって
は頭を下げた。
よく見れば、彼の顔は以前見たことがあった。騒動を起こした直後、医務室で。
彼が“室長”だったとは。
『お呼びだと聞いて、
、参りました。いかなるご用向きでしょうか』
『……』
「ん、なになに?何て言ったの?まあとりあえず座って、
ちゃん」
『…?』
『座れとよ』
『は、失礼します』
一礼して座る
に、神田は呆れたような目を向ける。
は少し言葉が分かるようにはなったとは言え、まだ通常の会話が出来るレベルには程遠い。逐一神田に通訳してもらうのは申し訳ない気もしたが、それ以外に正確なコミュニケーションをとる手段が今の
にはなかった。
「
ちゃんは本当に礼儀正しいんだね。そんなに畏まらなくていいのに」
「んなこと言うために呼んだのかよ」
「もう、せっかちだな」
肩をすくめて見せるコムイに、神田は気にしたふうもなくふん、と鼻をならしてやった。
「さて、
ちゃん。体調はどうだい?」
『体調は』
『はい。だいぶ食事も摂れるようになってきましたし、もう大丈夫です』
「いいってよ」
「そっか。結構落ち着いてきていい時期だから、君に会ってもらいたい人たちがいるんだ。本調子じゃないならもう少し待てないこともないんだけど、どうだろう?」
『人に会えるか?』
『はい、大丈夫です。いつまでも客分ではいられませんし、体はいつでも空いております』
「大丈夫だとよ」
「…カンダくん、なんか言葉端折ってない?絶対端折ってるよね?なんか言ってることの長さが全然違う気がするんだけど」
「うるせぇ。気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないでしょー!もう…ああ、そうだ。とりあえずこれは返しておくよ、
ちゃん。やっぱり君が持っていた方がいいと思うしね」
差し出されたものを見て
は咄嗟に立ち上がった。
一振りの刀。雅菊(やぎく)と銘打たれた、
の刀だ。父の形見でもある。
「ヘブラスカに預けていたんだけど、科学班で引き取って使えるようにしといたんだ」
『ありがとう…ございます!』
浮かんだ喜色に、コムイも笑顔をつくる。
「でも不思議だね。君は装備型のエクソシストのようなのに、その身体はアクマの毒を浄化する寄生型の特性も持ってる。やっぱり、ヘブ君に調べてもらう必要があるね」
昇降機はコムイと
の二人を乗せて静かに下降を止めた。
暗闇の中に光が浮かび上がり、大元帥による口上が述べられる。
新たなエクソシストの、歓迎の儀のようなもの。雰囲気から
はそれを感じ取る。
歓迎というには些か不似合いな場所だったが、明るく華やかである必要はないのだ。
「ちょっとびっくりするかもしれないけど、安心してね」
にこりと笑って何事か告げたコムイに
は首を傾げる。
次の瞬間、意識で理解する前に咄嗟に身体が動いた。何事かを感じて反射だけで飛び退ける。細った筋肉が悲鳴をあげた。
しかしあと一歩のところで何かに腕を掴まれた。先が手のようになった、触手のような柔らかく白いものが腕に巻き付く。あっという間に絡め取られた。
『――っ!?』
振り返ると、大きな顔がこちらを見つめてた。人のようではあるが、その形(なり)はあまりに人とかけ離れている。
『なん、だ……っ』
首元と刀を持つ手に伸びてきた触手が、触れた所から皮膚と同化する。それと同時に身体の中を探られる甘い電撃のような感覚が身体を走り抜けた。
抵抗をしようにも身体が言う事を聞かない。脳が麻痺したように意識がとろける。
『…!』
目の端で、手に持つ刀が光っている。心なしか刀を持つ手が暖かい。まるで雅菊が熱を持ってしまったかのような。
「これ……は………」
「どうだい、ヘブ君」
「………このイノセンスは、本来の半分の、姿…」
「ん?」
「
とこの刀……二つで一つのイノセンス……?いや、むしろ逆……か…」
の頭にぼんやりとした二つの声が響く。何を言っているかは分からなかった。
右の鎖骨が、刀に呼応するように暖かくなる。無意識に手をそこへやろうとしたが、びくりと指先が動いただけで、ひどく重たく感じる腕は中々思うようにあがらない。
腕を上げるのを諦めて
は体の力を抜いた。体がだるくてたまらなかった。
「
ちゃんの中にもイノセンスがあるっていうことかい?」
「…この身体の……血肉そのものがイノセンスに匹敵する…。この武器がイノセンスなのではない……
が、イノセンスなのだ…。
が使うことで、この刀は…イノセンスとしての力を持っているに…すぎない……」
「てことは、彼女が持つ武器がイノセンスになる、と…?」
「…そうだ」
「すごいや、
ちゃん!」
「シンクロ率……72%。
がイノセンスを正しく受け入れれば、値はもっと高くなる」
ヘブラスカはゆっくりと
と目線を合わせると、
がこちらを見ているのを確認して口を開く。
「
…」
『…はい』
最初は驚いて逃れようとした腕も、姿も、掠れたような声に感じる温もりに、今は抵抗を感じなくなってきていた。室長と普通に話を交わしているせいもあるだろう。
名前を呼ばれ、
は素直に頷いた。
「あなたは、黄昏に沈んだ世界で“漆黒の道標”となるだろう。…君に、神の加護があらんことを」
言葉を終えると、ヘブラスカはゆっくりと
の体を昇降機に下ろした。
するすると退いていく白い手をぼんやりと眺める。
「おっと!」
離れていく“ヘブラスカ”を見上げると途端に力が抜け、
膝から崩れそうになってコムイがすんでのところで受け止めた。
『も、申し訳ありま…』
「やっぱりまだ体力が厳しかったかな」
『…?』
「また後で内容はカンダ君に伝えておくよ。だから今はゆっくりとお休み」
なんだか体がふわふわとしてうまく力が入らなかった。まだ甘い電撃の余韻が体に残っているようで、そのまま暗闇に意識が落ちていく。
視界に映るヘブラスカの顔が霞んでいき、やがて、見えなくなった。
2010/01/13