風呂で身綺麗にしてやると、病的なまでに痩躯で、土気色の顔をした、けれど普通の餓鬼だった。
裏路地で拾った(、、、)子供は、今は中也の家の寝室で眠っている。
医者を呼んで点滴をし、栄養状態は若干マシになったと言えるだろう。
けれど身体に直接入れられる栄養だけでは、もちろん足りない。育ち盛りだろう年頃で、けれど劣悪な環境に居ただろうことが容易に想像出来る子供は、死にそうな顔で、けれどちゃんと生きて、昏々と眠り続けている。
毎日点滴を受けて少しずつ顔色はマシになって来てはいたが、それでもまだ健康というには程遠い。
子供が中也の部屋にやってきてから4日目の夜、中也が短い買い出しから部屋へ戻ってくると、寝台は蛻の空になっていた。代わりに、部屋の隅のカーテンにこんもりと丸い膨らみが出来ている。
中也が買ってきたペットボトルやその他諸々の入るビニール袋を寝台脇の机に置くと、音に反応してその塊がビクリと震えた。
「起きたのか」
一応声を掛けてみる。しかし、予想通り返事はない。
「動けるんなら、飯を食え」
続けて言ってみるも、やはり返答は無かった。
それで隠れているつもりということもないだろうが、子供は息を殺して静かにしている。
少し反応を待ってみるも、何もアクションが返って来ないので、中也はズカズカとわざと足音をさせてカーテンまで歩み寄った。
「いつまでそんなトコに隠れてる?」
カーテンを引っ張ると、頭を抱えて座り込んでいる子供が簡単に姿を現した。いや、頭を抱えているというよりも、殴られるのを恐れているように、目をキツく閉じて頭を手で庇って縮こまっている。
中也は膝を付いて、なるべく子供と目線をあわせるようにした。
「ここにお前を傷つけるやつはいねぇよ」
そう言って腕を取ろうとすると、子供は反射的にその手を払った。
「やっ……!」
必死に脅威から逃れようと、掴まれた腕を振りほどこうとする。
「ご、ごめんな、さ……、やだ……、やめ、て、…!」
弱りきった身体で、ほとんど無いような力で、それでも子供は何に謝っているのか謝罪を口にしながら、小さな抵抗を見せた。
中也は乱暴にならないように、けれど力強い所作でそれをなだめようとした。
「――落ち着け」
両腕を取られて正面を向かされて、そうしてやっと子供と中也の目が合った。
黒い髪に、黒い瞳。
洗ってもらって綺麗になった真っ直ぐな髪は、前髪も含めて肩に付くほどに長い。その長い髪の間から、漆黒の両目が中也を見ていた。
目が合うと、それはみるみる内に驚きに見開かれる。
「……ぁ、………あな、た、…は………、……」
酷く掠れたか細い音が、口からもれる。
子供は中也を認めると、先程まで暴れていたのが嘘のように抵抗を止めた。
信じられないものを見るように目をいっぱいに見開いて、子供は中也を凝視した。そして、身体から少しずつ力を抜いていった。
こちらに害を加える気が無いのが、ようやっと伝わったのかと中也は子供を見ながら思う。落ち着いたのを見計らって、中也は子供を掴んでいた手を放しながら、なるべく高圧的に見えないように、静かに口を開いた。
「落ち着いたか?」
「あ、の、………はい……すみ、ません……」
子供はそれきり口を閉ざして、中也をいまだ、驚きで以って見上げている。
「なんだ?」
「………いえ……」
子供は静かに首を横に振った。
それから、何か言おうと口を開いて、言葉が出て来る前に咳き込んだ。渇いた咳が喉を通り抜けて、子供は眉根を寄せて細い指で喉を数回擦る。
「喉、痛むのか」
「…、すこ、し……」
「今度医者が来たらそっちも診てもらうか」
言うと、子供はやはり驚いたように中也を見上げた。
先程から、驚いた顔ばかりを見るな、と中也は思った。
「立てるか?とりあえず飯だ」
中也は立ち上がって、再び手を差し出すと子供は遠慮がちに、けれど今度はしっかりその手を取った。
03
とても気持ちが良かった。
ふかふかで、暖かくて、足を伸ばしても手を伸ばしてもそれは変わらなくて、
はやっと自分は天国に来たのだと思った。
鼻孔をくすぐるのは上品な感じのする何かの香りで、
は天国は良い所だったことに安堵した。
目を開けると、目に入って来たのはシックな色合いでまとめられた、人間の住むような普通の部屋で、
は目を瞬いた。
ここは、どこだろう。
天国じゃないのだろうか。
けれど、ここが天国じゃないというのなら、一体どこだというのだろうか。
清潔なシーツに寝台、豪華というよりも、どちらかと言えばシックで上品な部屋の佇まい。
空腹が無くなったわけでもないし、髪は伸び放題で、痩せ細った手足はそのまんま残っていて、これはもしかして、自分は生き残ってしまったのだと気が付くのにそう時間はかからなかった。
けれど、ここがどこだったとしても、どう考えても自分に場違いであることは明らかだ。
どうしてこんなことになってしまったのかは分からないが、こんな綺麗な所に自分などがいると知れば、家主は怒り狂うに違いない。
はそう考えて身を震わせた。どうにかしなければ、という焦燥が、まだ働き始めたばかりの思考をじわりじわりと追い詰め始めていた。
その家主が
を助けたなどという思考回路は、生憎と
は持ち合わせていない。
ちょうどその時部屋の外で、誰かがこちらへと近づいてくるのに気が付いた。
足音がするわけでは無かったが、
はそこに人の気配があると、なぜだか分かったのだ。
は慌てて寝台から出ようとしたが、力の入らない四肢のお陰で寝台から落ちてしたたかに身体を打った。けれどそうこうしている間にも気配は扉の前まで来ているようだった。
は這いつくばって、壁際のカーテンの中へと滑り込んだ。
こんな所で隠れられるとは思わなかったが、けれど、少しでも敵から身を隠したかったのだ。
最初は、扉を開けた人に殴られるのだろうと、酷い仕打ちを受けるだろうと、そういう気がして恐ろしかった。
貧民街の子供を見る大人たちの目は、どれも似たり寄ったりで、酷く相手を蔑んだ目が見下ろしてくるのだと信じて疑わなかった。
けれど
に向かって手を差し伸べた人は、暗い裏路地で飴玉を投げて寄越したあの黒い人だった。
混乱していて気が付かなかったが、確かに先程扉の外に感じた気配は、裏路地で感じた気配と同じだった。どうして気が付かなかったんだろう、と思うのと同時に、この人が目の前にいることに、なぜだか
は安堵を覚えた。酷く安心したのだ。
しかも彼は暴力を振るったり蔑んだ目で見てくるどころか、心配して気遣うようなことばかりを言って、
はいちいちそれに驚いていた。
どうして、この人は自分を気遣うようなことばかり言ってくれるのだろう?
それが不思議でしょうがなかった。
貧民街の何の取り柄もないような餓鬼に、優しくしたって何の得にもならないだろうに。
けれど、これはなんという幸福だろうか、と
は思った。
こうして助けてくれたのが、まさかあの裏路地で飴を贈ってくれた人だなんて。
彼は己の事を、中原中也と名乗った。
中也はへたり込んで動けない
を抱えて寝台に戻してくれた。
それから、温かい食事を用意して、医者まで呼んでくれた。
どうして自分は、こんなにも恵まれた待遇を受けているのか。
には及びもつかないが、きっと、
を助けることで何か得るものがあるのだろう。
だから、何の縁もゆかりもない餓鬼を助けたのだ。
そうでなければ、小汚い浮浪児を助ける理由なんてないのだから。
分からないことだらけだったが、けれど
はそれでも良かった。どうせ自分は、あの裏路地で死んでいたはずの身だ。
は神様の気まぐれに感謝した。
「手前、名前は」
を抱えて寝台に戻してくれた中也は、布団を掛けなおしてから再度口を開いた。
「
、です」
そう名乗ると、中也は一度名前を口の中で転がしてから、
「今、飯を持ってくるから待ってろ、
」
そう言った。
中也に自分の名前を呼ばれると、
は言いようのない気持ちに包まれた。
嬉しかった。
中也に名を呼んでもらうことが、この上なく嬉しかったのだ。
は、はい、としっかりと頷いて、ぎこちなく、けれど心から笑った。
やっぱりここは天国なんじゃないだろうか、と
は思った。
2017/06/17