人手が必要なら手を貸すぞ、という国木田の言葉を断って、太宰は一人である男の元へ向かった。
その男は、
が御頭と言って慕っている男だ。
男についての調べはとっくについていた。
御頭と呼ばれる、
の属する組の頭目が
の家族を殺し、その罪を太宰に押し付けようとしているのだということも分かっていた。
男とは、太宰は確かに面識があった。
まだマフィアに居た頃に、抗争であの男に会ったことがあったのだ。
ポートマフィアと男の組との抗争で勝利したのはもちろんポートマフィアで、その時指揮に当たっていたのが中也と相棒を組まされていた太宰だった。確かマフィアを抜ける2・3ヶ月前だったように記憶している。
滅亡か服従かの選択を迫られて、男の率いる組は服従を選んだのだ。
裏社会は面子と恩讐で成り立っている。
彼等は表面では頭を低くしていたが、裏では恨みを膨らませていたということだろう。
そのお返しがこれとは、あまりにお粗末に過ぎるとは思いもしたが。
けれど、無心に太宰を仇と言って向かってくる
に、また、それを許している組に、どういうつもりかは知らないが、特に害になることもないので放っておいたのだ。
の健気な姿を見て、絆されたというのも僅かだが、ある。
どちらにしても、いくら太宰が“私は
の仇ではない”と説いた所で、
は聞く耳すら持たなかっただろう。
けれど今回のこれは、太宰が目を瞑って見逃してやっていたのを歯牙にもかけず、あまつさえ
と太宰を同時に葬ろうとした。
太宰が敢えて閉ざしていた口を開くには、充分過ぎる理由だった。
が逃れた先に目を忍んで付いていき、太宰は男と再び相まみえた。
男から直接、事の真相を聞かされた
は、悲嘆に暮れた顔をして、意識を手放した。
まだ死んではいないようだが、このまま放っておけばその通りになってしまうだろう。
時を同じくして、数回は男を死刑に出来るような証拠を太宰が送りつけておいた軍警が、組の屋敷に強制捜査に入った。
太宰が
を担ぎ上げて屋敷を出る頃には、あっけなく彼等はお縄になったのだった。
08
が目を覚ますと、つい数日前にも見た天井が目に入る。体のあちこちが痛んだが、意識を失う前の事が思い出されると、その痛みなんてどこかへ吹っ飛んでいった。
「(独りに、なったのか――)」
今までも独りで生きてきた。
独りだと思っていた。
けれど、実は御頭という心強い味方が居たのだ。
それさえも失って、もう自分はどこに行ったらいいと言うのだろう。
「目が覚めたか、小僧」
ゆるりと視線を移せば、そこには国木田が椅子に座っていた。
が目覚めたのを感じとって、理想と書かれた手帳をパタンと閉じる。
「気分はどうだ」
そう尋ねるも、
は何も応えなかった。
気分は最悪だ。
世界の終わりを見たような気分だった。
いや、実際自分にとって世界は終わってしまったのだった。
もう、何かを考えるのも億劫だ。
のそんな様子に、国木田は気遣うような目をやったものの、無言で席を立って部屋を出ていった。
はそれを見届けてから、あちこちが悲鳴を上げている上半身を起こした。
静寂だけが部屋を支配する。
無音の世界に、耳鳴りがしそうだった。
「(そうか、死にそこねたんだ)」
そう思った。
本当はあの日、あの場所で死ぬはずだった。なのに、どうしてか自分はまだこうして生きている。
は寝台脇の小テーブルの上に置いてある自分のナイフを手に取った。鞘から抜き取って、銀の刃を覗き込む。
闇が、写り込んでいた。
それ以外に何も、何も、ない。
はそっとそれを首筋に沿える。
「今、行くよ」
家族に告げた。
躊躇いはなかった。
けれど、首の皮一枚切った所でナイフを持つ
の腕を止めたのは、憎んでやまない太宰だった。
「その前に何か私に言うことがあるんじゃないのかい」
憎んでいた、はず、だった。
「………………、…放せ」
「そうじゃないだろう」
「………」
太宰は腕を掴んだのとは逆の手で、
がナイフを握っている手を解いた。すんなりと抵抗もなく手を開いた
から、太宰はナイフをとりあげる。
「……殺せ」
「それも違うな」
「………、……。………御頭は」
「最初に気にかけるのが君の家族を殺した男かい?」
そう言うと、ぼんやりとして虚ろだった
の瞳に、微かに色が灯る。
けれど瞳に戻ったその感情は、絶望、だった。
絶望という名の深淵の闇が、
を支配していた。
「――まあいいだろう。彼は軍警に引き渡したよ。あの組はもう終わりだ」
「………………、そう……」
それきり、太宰が何を言っても
は口を閉ざしたまま、また虚ろな瞳で虚空を見つめるのみだった。
「どうだった、小僧の様子は」
今しがた医務室から出て来た敦に、国木田が問い掛けた。
敦は暗い顔をしたまま、あの…と言いにくそうに口を開く。
組が壊滅してから、既に1週間が経とうとしていた。
「何も口にしようとしなくて。日に日に弱って来てます。………よほどショックだったんでしょうね」
あれではもう自分で舌を噛み切る力もないだろうね、とは今朝太宰が言った言葉だった。
はゆるやかに死のうとしているように見えた。
末端とは言え組の一員であったことからも、軍警や病院に託せば
が獄舎へ行くのは目に見えていた。行った先で、
は誰が手を下さずとも、独り死んでしまうだろう未来も容易に想像出来た。
武装探偵社は
を放り出すわけにもいかず、ここ1週間ほど医務室に置いているのだが、
は目を覚ましてすぐに太宰と少し言葉を交わして以降、全く口を開かなくなっていた。
このままではいずれ、そう遠くはない未来にこの世界に別れを告げてしまうだろう。
「どうにかしなきゃ……」
「そうだな…」
事務所に重苦しい空気が流れる。
それを打開出来る者は、生憎とここにはいなかった。
不意に太宰が立ち上がり、入口へと向かう。
「全く、手のかかる子だねぇ」
「おい太宰、貴様どこへ行く」
「国木田君」
「なんだ」
「今日は実にいい自殺日和だと思わないかい?」
「ああ?!」
微かにでも太宰に期待した自分が阿呆だった、と国木田は呆れたように溜息をついた。
何か、何か太宰が打開策を打ってくれるのではないかと期待したのだが。
太宰は少しの笑みを口元に浮かべたまま、爽風と事務所を出ていった。
「(温かい……)」
は心地よい揺れに目を覚ました。
気がつけば、
は太宰に負ぶわれているようだった。太宰が歩くのに合わせて体が揺れる。なんだかそれが妙に心地良いと思った。
「目が覚めたかい」
背中の気配が起きたのに気づいた太宰がいつもの口調で声をかける。
は何も応えない。
それにも太宰は特に気にも留めた風はなく、ゆっくりと歩みを進めた。
「見てごらん」
しばらくそうして歩いてから、再度太宰が口を開く。
言われて、
はほんの少し視線を上げる。
太宰が足を止めた。
目の前に広がっていたのは、美しい朝焼けだった。
河口に架かる大きな橋、その向こう側に、海から顔を出す美しい朝陽が佇んで、世界を照らしている。
朝のほんの少しひんやりした風が、
の頬を撫でていった。
太陽、だ。
はその光景に、目が焼けてしまうのではないかと思った。
日向の人間のみに許された、明るい世界。
明るすぎて、
にはそれはあまりにも眩しすぎた。
このまま目が溶かされて、身体が溶けて、消えてなくなってしまえればいいのに、と思う。
「君はね、この下で生きてもいいのだよ」
一瞬、言われたことの意味が分からなかった。
太宰は何を言っているのだろう。
この、この強い光の下で生きていく?
そんな大それたことが自分独りで出来るものか、とすぐに
は否定した。
「私は以前、マフィアに居た。人を大勢殺した」
知ってる。
家族もこの男に殺されたと思っていた。
それは間違いであったのだけれど、この男がマフィアであったことは変わらない事実だった。きっと
の想像もつかないくらい、たくさんたくさん人を殺したのだろう。
「けれども私は、この陽の当たる場所に居場所を見つけた」
太宰の声の調子はいつもと変わらない。
変わらないはずなのに、どこか嬉しそうだ、と思ったのは、果たして気のせいだろうか。
「今は人を助ける側として生きている。人はね、変わることが出来るのだよ」
人は変わることが、出来る?
本当だろうか。
いや、太宰の、もとマフィアの言うことだ。信用できるわけがない。
けれど、元マフィアの太宰が言うことだ。だからこそ、その言葉は特別な重みがあった。
信じてみたい。
けれど信じても、また裏切られるに決まっている。
今までがそうだったように。
信じてみたいけれど、裏切られることが分かっていて、また信じるなんてことが出来るハズが無かった。
「
。私が君を光の下へ連れ出してあげよう」
―――初めて名前を呼ばれた。
はびっくりして、太宰の横顔を見つめた。
分からない。
どうしてそんな事を言う?
どうせ後で裏切るんだろう。そうして後悔するのは自分なのだ。
それに、太宰は自分にそんな事をしてやる義理だってない。
この男は、どうして、そんな事を言うんだろう。
何も分からなかった。
どうすればいいのかも。
自分がどうしたいのかも。
「――ぅ、っ……」
けれど、この頬を伝う涙が、何かに繋がるのかもしれない。
ぎゅ、と
は太宰の体に回した腕に力を込めて、肩口に顔を埋めた。
太宰にはそれだけで充分だった。
朝焼けの朱い空気に、太宰の微笑む気配が溶けた。
2017/04/08
最後までお付き合いくださりありがとうございました。