06







その日はよく晴れた日だった。
陽が燦々と照りつけて、あんまりの暑さに皆外には出たがらない。
それでも仕事なので仕方がなく、社員の半分は今日は依頼の関係で外に出ている。今しがた国木田と社に戻ってきたばかりの太宰は、暑い暑いと言って少しでも涼を求めて、机に頬をくっつけていた。
早く報告書を仕上げろとは、いつものように国木田の言だ。
書類を押し付けようにも敦は生憎谷崎と出ていて、太宰はどうしたものかと思案した。

いつもと変わらない時間が静かに過ぎていたが、不意に何の前触れもなく探偵社の扉が開かれて、国木田は入口に目をやった。
そこにはが立っていた。
は3日と空けずに武装探偵社の事務所へ足繁く通っていたと思ったが、そういえば珍しくここ1週間ほどは見ていなかった。
は帰る時には行儀がそこそこいいものの、入ってくる時は大体が無言だ。もちろん奇襲を感づかれないためではあるのだが、今回はどこか様子が違うようだった。
そういえば、いつも手に持っているナイフも持っていない。

?どうした」

いつもとは違う様子に、つい、国木田は声を掛けていた。
この暑い日に、長袖の上着をきっちりと着込んでいる。いつもは見ない服装に国木田は訝った。
それに、入って来ようとしないに声をかけても、反応がない。

「………?」

国木田が言い終わるか終わらないかで突然、が無言で走り出したのにハッとして、国木田は慌てて席を立った。

「どうした!おい太宰!」

国木田の様子に、太宰も体を起こして椅子に座り直してを振り向いた。
一瞬、と太宰の目が合う。
そこにいつもにはない表情のを見つけて、太宰はそっと立ち上がった。
いつもが太宰に向ける瞳には、憎しみが込められている。憎悪や、怒りや、悲しみや、そういったものを目の奥に潜ませている。
けれど今日のそれは違う。

無だった。

何も、何も持ってはいなかった。
静まり返った凪いだ海のような。
何の感情も含まれていない瞳。
太宰はこの表情を、この目をよく知っていた。

それは、覚悟を決めた者が持つ―――

「太宰…っ、覚悟っっ!!!」

ほとんど悲鳴のような叫び声が上がる。
いつものそれとは比べ物にならない声に、事務所の人間も異変を感じて動揺が広がる。
太宰は、の口内に一瞬見えた銀色の物体に、目を鋭く尖らせた。
は走っている勢いをそのままに、太宰に飛びかかった。太宰に組み付こうと手を伸ばして宙に浮いた一瞬。が一瞬閉じていた口を開け、そしてまた閉じようとした刹那、

「がっ……!」

太宰の左手がの首を掴んだ。右手はの口にねじ込まれている。首を掴まれたままのの小さな体は、為す術無く宙に浮いた。

「太宰?!」

驚いた様子の国木田が懐の銃に手を添えている。抜く気はなかったが、もはや条件反射のようなものだ。
急に口に手を突っ込まれたは苦しみもがいて、バタバタと闇雲に暴れた。

「爆弾だ。奥歯に起爆スイッチを仕込んでる」
「なんだって?!」

この一瞬で気づかれた事には驚きながら、けれどそれに怯んだのも一瞬で、は暴れながら、太宰の手を噛みちぎらんばかりの力でぎりぎりと歯を立てて噛み付いた。
太宰はそれに眉一つ動かさない。

「なぜこんな暴挙に出たのか、是非聞いてみたいものだね」

そう言うと同時、ブチ、と何かを引き千切るような音とともに、太宰の右手が引き抜かれた。その手には、銀色に光る起爆スイッチが握られていた。
起爆スイッチに繋がる導線を引きちぎって、起爆スイッチごと抜き去ったのだ。
歯を立てられた太宰の右手からは血がとめどなく流れていたが、左手はいまだの首を掴んでいる。

「ゴホッ、ゴホッ……!」
「どうしたんだい、今日は。随分と趣向を変えてきたね」

腕から逃れようとが必死にもがいているが、その腕はびくともしない。おおよそ、いつものゆるい雰囲気を漂わせている太宰からは想像出来ないような視線の鋭さ、冷たさに、それでもは目に力を込めて睨み返した。

「くそ……くそっ!殺せ、殺せよ!」
「随分極端だ。理由を聞いてもいいかな?」
「くそっ……!」

は再度、口を大きく開けた。

「!」

――舌を噛み切るつもりだ

の様子からそれが分かって、太宰は溜息をつきたい気分で、けれど右手に持っていた起爆スイッチを放り出した。

「ごめんよ」

軽く謝ると、太宰は右手もの首にまわして、首を掴んでいただけの状態から一転して更にの首を締めた。

「あ、ぐ……!」

閉じようとしていた口を閉じることも出来ず、少しの間もがいてはいたが、数秒で動きが鈍くなり、その内あっけなく動かなくなった。
暴れていた体から力が抜け、四肢がだらんと力なくぶら下がる。
その様子に事務所の面々が息をのんだ。

「太宰、貴様…!」
「――大丈夫、殺しちゃいないよ。脈を締めて落としただけだ」

その言に、国木田はいからせていた肩をほっとなだめすかした。
太宰は丁寧な動作でその場にそっとを横たえた。その周りに国木田や事務員が寄ってくる。

「……、どうしたと言うんだ一体」

皆一様に、に変貌ぶりに戸惑っている様子だった。それを代表するかのように、国木田がぽつりと言葉をこぼす。
しっかりと閉められていた上着の前面のチャックを太宰が開けると、その下からは生々しい爆弾が顔を覗かせる。予想していたよりも遥かに火薬の量が多い。

「これは事務所どころかビルを丸ごと吹っ飛ばすつもりだったね」

胸に巻かれているのは強力な爆弾だった。それがいくつも連なっている。これだけの量があればビルを丸々一つ吹っ飛ばせる。
それほど本気だったということだ。
いつもは迷惑をあまりかけまいとしているの、らしくないやり方に皆疑問を持った。

「よし、爆弾を取っても起爆することは無さそうだ。だれかカッター貸して」

が着たベストの爆弾を調べていた太宰が周りに向けて言った。
すぐさま渡されたカッターで爆弾が巻きつけられているベストのつなぎ部分を切って、手際よく、しかし慎重に太宰がベストを脱がしていく。1分もかからずにベストを取り去ると、太宰は国木田にベストを渡した。
を背後から抱え上げて肺を圧迫してやれば、はく、と息を吐き出してが目を覚ました。
目を開けた途端に太宰の顔が視界に入っては一瞬目を見開いたが、瞬時に腰の後ろに手を回して一挙動でナイフを振り抜いた。そのまま太宰に向けて突き出すが、避けた太宰に腕を掴まれる。

が目を覚まして、あまつさえ攻撃を始めたことで、非戦闘員の事務員達が蜘蛛の子を散らすように離れていった。さすがに武装探偵社勤務だけあって悲鳴をあげたりパニックになるような者はいないが、それでもナイフを振り回している人間の側にいれば巻き添えを食うというもの。
まだ戦闘意欲を失っていないを見て、国木田も渋々銃を抜いた。
の腕を掴んだ状態で、太宰はを見下ろした。燃え上がるような色を宿したが睨み返している。

「言っただろう。私は人に迷惑をかけないクリーンな自殺を信条としている。君のこのやり方は感心しないな」
「うるさい……うるさい、うるさい、うるさい!!マフィアの人間が、日向の人間のフリをして何を言ったって所詮は戯言だ!俺は、俺は今度こそ、お前をっ……!」

そう言って腕を振りほどき、再びナイフを太宰に向けて振り回し始めた。太宰は今度こそ溜息を着いて立ち上がった。
いつものように軽くナイフをいなすものの、の太刀筋は今は全くと言っていいほどキレがなかった。
それも当然か、と目を血走らせてまるで特攻するかのような攻撃の仕方に、太宰は珍しく眉間に皺を寄せた。

誰が、をここまで追い詰めたのか。

「君らしくもない。なんだい、その太刀筋は。眠くなってきたよ」
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……っっ!!」

こうなってしまっては、もはや誰の声も届かないだろう。
はもう、迷惑をかけるだとか、国木田を怒らせないようにだとか、そういう一切の雑念を捨てて、ただただ、太宰を殺すことしか考えていなかった。
何があったのかは分からないが、相当追い詰められているようだというのは、状況からも火を見るより明らかだった。

「全く……」

これでは埒が開かないと、太宰はポケットに入れていた手を出した。

「悪く思わないでくれ給えよ」

いつもはポケットの中か、ナイフを避けるためだけに腕に添えられる程度の太宰の手が、の肩を掴んだ。咄嗟の事で抵抗することも出来ず、の体は太宰の方へと引き寄せられた。

ご、という鈍い音は、太宰の膝がの溝尾に的確に入った音だ。
はうめき声を上げて、地面に横たわった。
意思に反してナイフが手から抜け落ちて地を転がった。
が最後に見たのは、国木田が駆け寄ってくる所だった。死ね、と呟いたつもりだったが、急激にせまる寒気に飲まれ、はそのまま気を失った。

「……追い詰められて、いるな」
「そうだねぇ」

床に横たわって気を失っているを見て、国木田が苦いものを噛み潰したように言った。対する太宰の口調は、いつものゆるりとしたものだった。
けれど、表情はどこか冷ややかで。

「何か思い当たることでもあるような言い方だな、太宰」
「――まぁ……これは私の問題だ。後は任せてくれ給えよ」

いつもは盛大な文句を飛ばす所だが、太宰の様子に今日は国木田は何も言い返すことをしなかった。

「……頼んだぞ」

太宰の目は、いつもにはない、冷ややかな目だった。
それが、見えない何かを見据えるように細められている。

太宰が珍しく、怒っている。

周りの人間には分からなかっただろう。けれど、曲がりなりにも2年ほど相棒をやってきた身だ。国木田には、太宰の“怒り”が手に取るように分かった。








2017/03/25

神もなく しるべもなくて 06