は驚いてその青年を見上げた。
先ほどまでは自分しか居なかった、ビルとビルの間の狭い路地。
それが今はどうだろう。
瞬きをしたその一瞬で、目の前には見知らぬ青年が現れていた。
は青年の方を向いて、長い前髪にほぼ覆われている両の目を瞬かせた。
が驚きに固まって、壁に寄りかかって携帯らしきものをいじっている青年を見ていると、ようやっと
の視線に気がついたらしい青年が
を見返してきた。
「……あれ?」
男の間の抜けた声が、細い路地に響く。
も青年の声に合わせるように、まるで「何をしているの?」とでも尋ねるかのように、こつん、と首を横に傾けた。
01
夜ト神が携帯をいじっていたのは、どこにでもある駅近くの薄暗がりの路地裏だった。
夜トがここに来てから少しして、ランドセルを背負った小さな子どもがその路地裏に現れた。その時は、その他大勢の人間がそうであるように、子どもにも夜トは見えていないようだった。
子どもは路地裏の奥まった所まで来ると、なぜかビルの側面に背中を付けて座り込んでしまった。
特に何をするでもなく、擦り切れたランドセルからボロボロの教科書を出して眺めたり、たまに虚空を見つめてぼうっとしたりしている。
夜トは夜トで、見えていない事をいいことに、壁に携帯番号をでかでかと書いてから、休憩とばかりに携帯電話をいじっていた所だった。
夜トが携帯からふと顔を上げてみると、なぜか先ほどとは打って変わって子どもが夜トの方を見つめていた。
こてん、と首を傾げた子どもは、次に夜トを指さした。
「……俺?」
まだ半信半疑で夜トが控えめに自分を指さすと、
は小さくこつん、と頷いた。
「(こいつ…オレの事が見えんのか)」
段々辺りが暗くなってきた時分のことだ。もしかしたら、逢魔が時が二人を引きあわせたのかもしれなかった。
は夜トを指さすと、近くにあった石を握って、体育座りしている自分の前のアスファルトに文字を書き始めた。
――なにしてるの
アスファルトに出来た薄い白い線は、そう書いてあった。
「オレ?布教活動だっ!」
夜トが声高にそう言うも、
はまたしても首を傾げた。「布教活動?」そう聞きたそうな顔で。
その仕草はまだ幼い。来年には
は6年生になると言うのに、その身体は同級生と比べると随分と小さい。
その小さい身体のサイズにそぐわない大きな服がずるりと肩から落ちて、
はいそいそとそれを戻した。
一向に口を開こうとしない
に、夜トは嬉しそうな顔を元に戻して
の目を見据えた。
「……声、出ないのか」
は目をしばたかせた。
少し困惑したように何度か瞬いて、それからこつん、と頷く。
その顔には苦笑が乗っていた。何かに酷い失敗をやらかしてそれを誤魔化すような、あまりおもしろくない笑みだった。
苦笑の合間で榛(はしばみ)色の目が、ゆらりと揺れる。
「そっか…。ま、何か困った事があれば俺に連絡しろよ。どんな悩みでも解決してやる!」
そう自慢気に夜トが親指で指し示した先は、先程夜トが熱心に壁にスプレーで書いていた“悩み解決致します”の文字。
はそれを見たまま、しばし固まった。
「ま、そういうわけだから。じゃなっ!」
それだけ言って片手を上げて、足早に立ち去ろうとする夜トに、咄嗟に
は夜トのジャージの端を掴んでいた。
『まって』
の口が動く。
「…なんだって?」
は慌てて先程の石を拾い直し、今度は壁のコンクリートに文字を書き始めた。
――いっしょにいて
「ここにか?」
また、こつん、と頷く。
――くらく なるまで
文字を書いてから見上げて来る目は、どこか不安気に揺れている。
こんな時間に一人で薄暗い路地にいるのが嫌なのかもしれない、そんな当たりをつけてから、夜トは一つ頷いた。
「――、分かった。お安い御用だ。ただーし!これだけ用意してもらおうか!」
夜トが指5本広げて突き出すと、
『いくら?』
音のない声で口だけを動かしながら、首を傾げて見せた。
「願いゴトは五円だと相場が決まってんだろうがー!」
フフン、と得意気に言い放った夜トを見て、
はまた目をしばたかせた。
眼をしばたかせるのは、どうやら驚いた時にする
のクセらしかった。
はしばし目をぱちぱちとした後に、慌ててポケットから小さな小銭入れを取り出した。
小さな穴が空いている小銭入れはかろうじてその役目を果たしている。財布の中にはわずかな小銭しか入っていない。それもほとんどが十円や五円や一円で、お札なんて影も形も見えない。
夜トはちらりと見えた財布の中身に、今更ながら
がどうしてこんな場所に居たのかと疑問に思った。
夕方、人は殆どというよりも全く通らない、ビルとビルの薄暗く細い道。
履きつぶされたボロボロの靴、袖を折り曲げてなんとか着ている随分と大きな服、目を覆い隠す程に長い前髪。
極めつけは音の無い、声。
ひょっとしなくても、いい家庭環境で暮らして居ないことは容易に想像出来る。
いや、劣悪な家庭環境と言っても過言ではないかもしれない。
差し出された五円を受け取る手が躊躇した。
けれど不思議そうにする
に、夜トは止まっていた手を再度動かして五円玉を受け取った。
「……毎度。あなたに御縁があらんことを」
きょとん、と
が目をしばたかせた。
それからその言葉をゆっくりと噛みしめるように、とても嬉しそうに笑った。
『ありがとう』
音の無い声がそう言ったのに、夜トは少し複雑な顔をした。
この哀れな人間の子供が、少しでも心安らかになればよいのに、と。なんとなくそう思いながら。
2014/10/06