「これ追加、お願いね!」
「はい」

大きなタライの中にはまだ洗いきれていない食器やコップが入っているというのに、その横に更に追加された食器たちに、は小さく息をはいた。
夜には酒やシンドリアの名物料理を出して繁盛するこの店は、この時間帯は常にそんな調子だった。忙しいということはそれだけお客が入っているということで、お店としてはいいことではあるのだけれど。
は昼はホールでの仕事もするが、夜は酒飲み客が多く少し物騒なので、まだ9つになったばかりの彼女には夜は水周りが専らの仕事場だった。
まだまだ夜は始まったばかり。
やっと暗くなった外を見て、次にまだ早い時間を指す時計を見る。

「(…がんばろ)」

は軽く腕を回してから、目の前の作業を再会した。









01









ちゃん、休憩にしよう」

そう言って声をかけてくれたのは、この店の女将さんだ。
40代だが若々しく、いつも手際よく仕事をこなす。その上面倒見も良く、はとても可愛がってもらっていた。

「はい」

差し出された賄いを受け取って、は女将にぎこちなく笑い返した。
ここへ来た当初よりはは少しは感情が表情に出るようになった気もするが、それでもまだだいぶぎこちない。それはが生来の無愛想だからというわけではなく、その育った環境にあった。

は戦争難民だった。
父親は戦争で死んだ。
戦で国を焼き出され、母親と共に色々な国を転々とした。
幾日も幾日もひもじいつらい生活が続き、日に1食ということも珍しくない日々は幼いでなくともつらい日々だった。人とのコミュニケーション能力を培うどころか、その日1日をどう生き抜くかで精一杯だった。それでもそれを生き抜いて来られたのは、一重に母の努力の賜物だった。
やっとのこと得た噂のシンドリアへの渡航の機会に、母親もも喜んだ。が、その母親はシンドリアへと渡ってくる途中の船で軽い熱病に罹り、帰らぬ人となった。普段であれば数日で治る病も、弱り切った母親はそれに耐えるだけの体力も免疫力も持っていなかったのだ。

それでも3ヶ月前、独りになったをこの国は暖かく迎え入れてくれた。

の歳では孤児院で暮らすことも出来たが、は一人で働くことを決めた。
戦争孤児であるを、この店の店長や女将は快く受け入れてくれた。昼はランチ、夜は酒を出すこの店で、は1日中働いている。9歳に出すにしてはそれなりにしっかりとあるお給金のおかげで、決して裕福とは言えないが、一人暮らし出来る狭い部屋を借りるくらいは出来た。食事は賄いがあるし、生活用品は必要最低限しか使わないようにしているから、なんとか生活は成り立っている。
祖国でもそこまで良い暮らしというわけでは無かったし、それを考えれば今の状態はそれなりの暮らしぶりだと言えるだろう。
基本的に淡白な性格で、育った環境ゆえかあまり人付き合いが上手くないは最初は人とめいいっぱい関わるこの仕事を嫌厭したが、女将が気にかけてくれていることもあって、今の所はこの店と仕事とうまく付き合えていた。

「もう参っちゃうわ、あの客」
「…どうかしたんですか」

厨房の隅っこで賄いを食べながら、珍しく女将が愚痴をこぼしていた。女将はどんな事でもあっけらかんとしていて軽くあしらえる良く出来た人なので、女将がこういう事は言うのは結構珍しい。

「ほら、例の。最近移住してきたらしいボンボン達よ」
「ああ、あの…」

あの、というのは、最近ちょっとした噂になっているの若者たちの事だ。
親たちが富豪だか貴族だかの出らしく、身なりはいいのだが、素行がどうにもよろしくない。この界隈のあちこちで問題を起こして回っているというので、最近ちょっとした有名人なのだ。

「今日もラストまで…居るんですかね」
「あれがいると他のお客さん達がゆっくり出来ないのよねぇ…」
「そうですね」
「あんな大人になっちゃだめよ、ちゃん」
「はい。ならないようにがんばります。………大丈夫ですか、女将さん」

遠慮がちに心配するに、女将は笑いながら大丈夫よ、と答えた。
人との付き合い方がまだよく分かっていないらしいは、傍から見たらだいぶ無愛想に見えるだろう。けれど少なくともは、女将や女将の旦那である店長の事は信頼して心を開いているし、不器用ながら人を気遣う心を持っているという事を、女将はちゃんと理解していた。

「こういう事は慣れてますからね。ちゃんは厨房から出てきちゃダメよ」
「……はい」

酒を出す店なのだ、女将も酔っぱらいの扱いには慣れている。それはとて重々承知だ。
けれど女将は口には出さないが、美人で人当たりの良い女将がちょくちょくお客さんに絡まれているのを、は知っていた。だから、なんとなく心配になったのだ。




心配も虚しく騒ぎが起こったのは、あと1時間もすれば店が閉まるという時間だった。




ガシャン、とホールから大きな音がして、は厨房からそっと顔を出した。物が割れたのなら片付けに行かねばならないと思ったが、中から出てくるなと女将に言われてもいるし、とりあえず様子を見ようと思ったからだ。
目に入ってきたホールの様子には眉間に皺を寄せる。
例のボンボン達が、女将の手首を握っていた。大きな声で、何かまくし立てている。

「(だから言わんこっちゃない)」

女将はやんわりとその手を放させようとしたが、どうにも相手はそれを聞き入れる感じでもない。
こういう時に限って、店長は席を外している。
は逡巡の後、前掛けで手を拭いてから厨房を出た。

「あの、ですから結構です……」

近づいていくと、未だに女将は穏やかに断ろうとしていたが、数人の青年達は聞く耳を持たない。そもそも相当酔っている様子だったので、意味を理解しているかも怪しかった。
6名程の青年は確かに身なりはそれなりで、いい所の出なのだろうと思わせる。けれども下卑た表情は金を持つもの特有の威圧的な空気を放ち、対峙する人間を不快にさせる。
女将の手を掴んでいるのは、どうやら6人の内でもリーダー格の男のようだった。赤い少し長めの髪を揺らし、見下すように女将を見ている。
それでもはそんな事はお構いなしに、テーブルに近づいて静かに女将のすぐ後ろまで歩み寄った。

「女将さん、店長が呼んでます」
ちゃん…」

出てきちゃダメって言ったでしょう、と振り向いた女将の顔には書いてあったが、は知らんぷりをして、ついでに騒動にも気がついてないような風を装って、平然と言った。

「すみません、店長が呼んでいますので」

女将がそう言って離れようとすると、リーダー格の青年はをギッと睨みつけた。

「なんだい、このクソガキは!今取り込んでるから行けないって店長に言っときな」
「そういうわけにも。さ、女将さん行きましょう」

は男の手から女将の手を半ば強引に引き剥がした。

「てめぇ…おめぇが相手でもしてくれるってぇのか!」
「そういう相手を探してるんだったら、そういうお店に行って下さい」
「んだと、このガキ。ナメた口ききやがって」
「行きましょう、女将さん」
「待てって言ってんだろ!」

一際大きな声で喚いたと思ったら、青年はに向って手を振り上げた。

「(…!)」

ぶたれる、と思って目を瞑ったが、予想に反して聞こえたのは自分の頬を打つ音ではなく、女将が床に倒れこむ音だった。
目を開いて、女将が床に伏せている光景が目に飛び込んで来て、は自分の体中から血の気の引ける音を聞いた。

「女将さん…!」
ちゃんはあっちに行ってなさい…」
「この、アマが…!」

なおも男は、床に付いた女将の手を高級そうな革靴で踏みつけた。

「きゃぁっ…!」
「言うこと聞かねぇやつには体に教えてやんなきゃなぁっ!」
「やめろっ!お前っ…」

は男の足に取りすがったが、大きく振り払われて小さな体は簡単にふっ飛ばされた。ガツン、と強かに体を打って近くの床に倒れこむ。ドッと取り巻きの青年たちから笑い声が上がった。
なおも視界に、女将さんの手を踏みつける男の足が映る。
はもう一度男の足をどかそうと足に組み付くが、今度は頬を殴打されて床に転げた。口の中にじわりと血の味が広がる。ぶたれて口の中が切れたのだろう。
けれどそんなことより何より、男の足が幾度となく振り下ろされる度、上がる女将の悲鳴に、は、自分の中で何か(、、)が外れる音を聞いた。

「(許せない……)」

外れてしまったそれは枷かもしれなかったし、意識的に押さえていた怒りかもしれない。
は、ゆらりと立ちあがった。
体中の血液が沸騰しているかのように体の中で暴れまわっている。
頭に血が上って、目の前がチカチカする。

は無意識の内に、自分の中に仕舞って出さないようにしていた力(、)を開放していた。

「足を…どけろ…ッ!」

ビッ、と音がして、男のズボンの裾に近い所が裂けた。続けて、ビシ、ビシ、と音がする度に男の服が裂ける。その内、頬や腕などの体にも“何か”が襲い、男は裂けた傷口からダラダラと血を流し始めた。

「な、なんだ…?!」
「(許せない……!)」

男は困惑して、風(、)で裂けた箇所を見る。
それから自分を睨んでいるを見て、「てめぇかっ…!」大声で叫んで、なおも手を振り上げた。
途端にと女将を中心に風が渦巻いて、その周りに居た男たちや置いてあった家具を軽く吹き飛ばした。

「(ゆるせない。女将さんを、傷つけるなんて)」

は体の中心から湧き上がる膨大な怒りに身を委ねた。
吹き飛んで壊れる机やイス、傷を負う人々を見ながら、けれど同時にの頭の中では警鐘を鳴らす小さな声がした。


―――いけない。これは、この力は恐ろしい力だ。人に災いを呼ぶ力だ。
―――せっかく今まで、使わないようにしてきたのに。


けれどそれよりも、女将さんを傷つけられた事で、の中で既に何かが瓦解していた。
許せない。
女将さんを傷つけたことが、ただただ、許せなかった。
その思いはの思考を麻痺させ、力を抑えこむ事を放棄してしまっていた。



―――自分が傷つけられるならいい。けれど、女将さんは、女将さんは…!



風は更に渦巻いて、この席どころか店全体を飲み込もうとしていた。
店には悲鳴が上がり、夜の一時を楽しむ酒場は騒然とした現場へと姿を変えつつあった。








2015/12/31

新連載開始。

渇いた、大地 01