歩き慣れた道を、中原中也はいつものように本部に向けて歩いていた。
少々面倒なヤマを引き継いで、あれやこれやと手を回して、とりあえずようやっと一旦本部へ報告に帰れそうだ、と疲れた体を引きずって歩いていた所だった。
妙に口寂しくて、ポケットから煙草と気に入りのライターを取り出した。
と、ころり、と一緒にポケットから転がり出たものが、そのまま重力に従って、てん、と地に落ちた。
中也にしてみれば見慣れないし普段持ち歩くこともない、飴玉。
中也をよく知る人間達が見れば、彼が持っていることに違和感を覚えるかもしれないこの飴玉は、しかし中也が欲してここにあったわけではなかった。
いつもは立ち寄らない煙草屋で、その店番をしていた老婆にもらったのである。
いらないと突っ返すのも愛想がないので、もらって困るものでもなし、とりあえず受け取ったのを、今の今まで忘れていた。
その短い物思いから我に返って、立ち止まって見やった、飴玉が転がった少し先、数歩くらい進んだ先に落ちて(、、、)いるものに気がついて、中也は眉を寄せた。
人の手だ。
もっと言うなら、人間の子供だった。
夜も更けたこの横浜の、闇深い裏路地に於いて、その身の背を壁に預けて、座り込んでいる子供だ。
髪はボサボサ。
着ている、というよりも着られている、と表現出来そうなボロ布を纏っている。
背に全体重を掛けて、少し肩を上下させながら息をしている。
座っている、というよりも、力尽きて座り込んだ、という表現が正しいと思われる。ようやっと背中を壁に預けているが、いつパタリと横に倒れてもおかしくないような、そんな様子だった。
人の気配に気がついたのか、ピクリとその手の指先が動いたが、それもほんの少しだけ。
中也は眉を寄せたまま、けれどそのまま通り過ぎるつもりでいたが、足元の飴玉にそういえば再度目をやって、気まぐれに、飴玉を靴の先でちょい、と突いて転がした。
転がった先で、子供の指先にちょこん、と当たってそれは止まる。
それを見届けて、中也は子供の前を通って再び本部へ向けて歩き出した。
これから死の旅路へと旅立つだろう子供への、ささやかな贈り物だった。
01
どうにも頭が重くて、
は真っ直ぐな道を蛇行しながら歩いていた。
今日の食料も無事に調達出来て、その帰り道。
貧民街では親も兄弟も無いが、一緒にグループになって暮らしいてる子供達が居た。それぞれがそれぞれで、なんとかして食料を調達して、少ない食料を毎日皆で少しずつ分けて食べていた。
今日は少し黴があるけれども大ぶりのパンを獲得して、それを持って帰る途中だったのだけれど。
昨日から降っている小雨にやられたのか、先程から
の足は覚束ず、段々と頭に霞がかかって来たような気すらする。
そういえばここ数日は大した食べ物にもありつけず、皆空腹で鳴る腹を抱えながら眠れない夜と戦っていた。もしかしたら、そのせいで思った以上に弱ってしまっていたのかもしれない。
フラつく頭と足元に、これはマズイ、と思いはするもののどうにも出来ず、まだ貧民街までは距離のある裏路地で、ついに
は座り込んでしまった。
こんな所に座っていては、とてもマズイ。
それはよく分かっているのに、もう一歩も前へ進めそうになかった。
この道はよくマフィアやその辺のチンピラが使う道で、貧民街の人間もあまり通らない。
パンを早く持って帰りたいばかりにちょっと通るだけのつもりで入ったが、それが大きな間違いだった。既に頭が朦朧として、正常な判断が出来なかったのかもしれない、とも思うが、もう遅い。
チンピラ共に見つかれば何をされるか。
それに、
が帰らないことでグループの皆は
を探すかもしれないが、この道には恐らく来ないだろうとなんとなく思った。それくらい、この道は貧民街の人間には忌避されている。
は荒い息を吐いて、迫りくる闇に抗う事も出来ず、意識を手放した。
意識が朦朧とする中で、夢の中のような、現実のような、朧な風景が通り過ぎていった。
恐れていたチンピラが足を止めて、ちょうど良いところに餓鬼が一匹、と話しているのを耳に捉えた時は、冷や汗が背を伝った。
髪を掴んで無理やり顔を上げさせられて、眩しさに目がくらむ。
しかしチンピラは髪を乱暴に離すと、こんなんじゃあ臓器だって売れやしねぇ、と悪態を付いて足早に去っていった。
それだけ酷い顔をしていたのだろう。
ちらりと視界に入って来た自分の腕や手は、確かに、生きているのが不思議に思えるくらいには痩せ細っていた。
これじゃ、きっと、烏だって食いやしない。
食べる所なんて残っていないだろうから。
そう、心の中で嗤った。
それからも幾人かが
の座り込む路地を通っていった気配がしたが、もちろんどの人も手を差し伸べることは無く、ただ
は動かない思考であれからどのくらい経ったのか、あとどのくらいで死ぬのか、そんなことばかり考えていた。
もう、ここに座ってからどのくらい経ったのか、1日か1週間か1ヶ月か、分からない頃合いに、ちょん、と指先に触れた感触で、
はそちらに目をやった。
見れば、何かが指先に触れている。
それは間違いでなければ、恐らく飴玉だ。
とてもこの世のものとは思えない、甘美な味のするお菓子。貧民街に住む
にしてみれば、とても高価で貴重なものだ。
ついに幻でも見るようになったのかと思ったが、けれど人の気配が前を通り過ぎるのを感じて、どうやらこの人が置いていってくれたようだと分かった。
どんな人なのだろう。
ほとんど無い力を振り絞って、
は微かに、ほんの微かに首を傾け、目を精一杯に上向かせてそちらの方を見上げた。
黒い帽子。
黒い背中。
明るい茶褐色の綺麗な髪の色だけが、その闇の中にあって異様に目立っていた。
この世も捨てたもんじゃなかったんだな。
死にそうな子供なんて珍しくないこの世界において、手を差し伸べる人間がいるなんて信じられなかったが、けれど実際に目の前に現れたのだ。
先は長くない、それは一目瞭然の子供を目の前にして、その人は子供の喜びそうな飴玉を投げて寄越した。
なんて素敵な贈り物だろう。
は動かない手を必死に動かして、飴玉を手繰り寄せた。握力もなく握ることは出来ないまでも、なんとか手の平に乗せる。
この贈り物を持って行こう。
なんとなく暖かな気持ちに包まれたまま、
の意識は途絶えた。
2017/06/03
タイトルは「山羊の歌」の「汚れつちまつた悲しみに……」より頂いてます。中也が夢に出てきてから、中也が頭から離れなくて…。
中也の弟子になりたい。